神が見捨てるのではない、見捨てるのは私たち

キリスト教の本屋さんなどでもらえる「いのちのことば」という冊子があるのです。
先日久しぶりにキリスト教書店に行って本を買ったので、この冊子を手にしました。
NHKの英語講座などで昔講師をされていたこともある早稲田大学名誉教授の東後勝明さんという方の文章にうなづかされたので転載します。

「信仰の落とし穴(3) 御心を求めて」というタイトルでした。

以下転載

クリスチャンなら誰でも知っている祈りに「主の祈り」がある。
その中にこういう一説がある。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

ところが、私たちが実際に祈るときはどうだろう。
どうしても「こうしてください」「ああしてください」
と自分の思いを祈ってしまう。

祈りとは一般に「自分の思いや願い」を神様にかなえてもらうために行うものだ。
たとえば病気の人は「どうぞ、私のこの病をいやしてください」と祈る。
その結果、祈りがきかれ癒されると、
「やはり主はおられる!」「祈りはきかれた!」と心の底から感謝をすることができる。

しかし問題は癒されないときである。
「どうして私のこの病を癒してくださらないのだろうか」
「神様は何でもできるはずなのに」との思いが
頭をもたげてくる。やがて信じていたつもりの神様も見えなくなり、
「神などいないのでは」と思い始める。

そのうちうっかりすると、思いがかなうと神は存在し、
かなわないと神はいないと思うようになり、
なんとか神を味方につけ、自分の思いを遂げようとする。
こうなると、「神様、神様」と言いながらも、いつのまにか
自分の思いが中心となり、自分に都合のいい働きをする神様を追いかける。
やがて人はこうして自分に不都合な神から離れ、即効性のある
いわゆるご利益宗教に走るようになる。
多くの人がここでも足を取られる。

しかし、私たちが信じるキリスト教の神様は、
自分の思いがかなわないときも、病が癒されないときも、
悲しみのどん底にあえぐときも、まったく孤独と思われる
陰府にいるようなときも、私たちと常に共におられる。
主は私たちを見捨てられない。
見捨てるのは私たちではないだろうか。

あえて言えば、信仰を持ち、諸事万事が自分の思うようにうまくいくから
心に平安が保たれるのではない。

私たちは、生きることも死ぬこともすべては
主の御手の中にあり、一切が赦され、贖われ、救われていることに
気づいたとき、はじめて真の心の平安が与えられるのではないか。
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by martha2nd | 2011-05-31 14:50 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)

クリスチャン。在宅翻訳やってます。夫と文鳥との生活に奇跡的な誕生をした息子も加わり奮闘しています。


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