殺意があった場合

川崎の中学一年生が18歳や17歳の少年たちに惨殺されたという事件。
私がよく通る多摩川の河川敷をずっと下って行けば、この事件の現場に着くのでしょう。
近所の中学生を見ていても、1年生といったらまだあどけなく、
体もまだまだ発達途中で、成長を鑑みて作った制服がまだぶかぶかです。
そんな上村君が悪い仲間と付き合うようになってしまったのは本当に残念ですが、
恨みや怒りで人の命を奪うことはゆるされないことだということは未成年でもわかるでしょう。
いや、わからなかったのでしょうか。
18歳といえば、結婚さえしていい年齢ですよね。
学校に行っていなかったようですが、18歳を18歳相応に育てるのは学校の責任ではなく、
親の責任ではないでしょうか。それを親の入れ知恵か何かで黙秘させ、弁護士もいっしょに出頭とは、
ずいぶん甘やかされて育ったのでしょうか。

私は今朝旧約聖書の申命記19章1~7節を読みました。
神様がイスラエルの国に、殺人者が逃れられる地域を作るように命じています。

「殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次の通り。知らずに隣人を殺し、以前からその人を恨んでいなかった場合である」

解説(Clay3月号P16)によると、次のように書いてあります。

「逃れの町の規定は、命の尊さをイスラエルの民に教えるためのものです。いかに過失とはいえ殺人を犯した者は、相当な期間、自由を拘束されました。それによって民は、神の目には人の命が尊いものであることを学んだのです。人は神の作品であり、その命は実に尊いものです」

しかし殺意があった場合には、殺された者の最も近い血縁の男性が、犯人を殺すという規定が続く聖書箇所に書いてあります。

旧約の時代にはこれほどの厳しいルールがあったのですね。

逮捕された少年たちにまだ少年らしい心が残っていることを願います。そして、取り調べの警察の方々も十分知恵を用いて、そのような心を引き出し、それぞれが本当のことを話すように、心の底から悔い改めるように、そして相当の罰を甘んじて受けるように、社会に出てきたときに、二度と間違いを犯さないようにと願います。

しかし、神様を抜きにして、「命の尊さ」だけを教えることは非常に難しいですね。
もし今の科学が主張しているように、宇宙が偶然の産物で、地球もその偶然の一部で、
そこで発生した生命体というものも偶然にできたにすぎず、長い年月を経て、人間に進化してきたとしても、
人間は依然として偶然にできたもので、その命が尊いという根拠を示すことは無理でしょう。
しかし聖書が言うように、人間は神様の作品であり、神様がその一人ひとりを愛してやまないもので、
一つの命も偶然に生まれたものはない、神の意図によって意思によって愛によって生まれた、
という前提があるならば、命がいかに尊いか簡単に説明できると思います。

教育や社会から真面目に「神」について考えることはだいぶ前からなくなりましたから、
このような説明は本当に困難なことだとは思いますが、神という名は忘れられても、
おそらく倫理観や法律などには、神がモーセに与えた「十戒」の影響が、今日に至ってもあの太古の律法が、
生きているのではないかと思います。「殺してはならない」と書いてありますよね。「盗んではならない」も。

神がいるから命が尊いという論理に耳を傾ける人は少ないにしても、
民法や刑法など、子供のころからわかりやすく教える必要があると思う今日このごろです。
こんな罰があるから、人を殺してはいけないよ、ではなくて、人を殺すということは、これくらいの罰に相当するんだよ、なぜなら命は尊いからだよ、というように。
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by martha2nd | 2015-03-02 15:51 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)

クリスチャン。在宅翻訳やってます。夫と文鳥との生活に奇跡的な誕生をした息子も加わり奮闘しています。


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