カテゴリ:神・キリスト・聖書・十字架( 143 )

私、実は6月10日の母の命日をすっかり忘れていて、父に叱られました。
でも私、毎日のように天国のこと考えているんですね。
やはり天国のことを考えるようになったのは、母が天国にいるからというのが大きいですね。
空を見るのも大好きです。

そして天国のことを歌った歌が大好きです。
それも明るく、陽気に歌っているのがいいですね。
私はサザンゴスペルという歌のジャンルが大好きですが、やはりこのジャンルの歌がいいですね。
けっこう天国のことを歌った歌が多いんですね。
黒人霊歌などがベースになっていたりするので、地上では何の望みも持ちえなかった黒人の奴隷だった人たちが、天国だけを夢見て歌っていた歌が多いのでしょう。

それでメモなんですが、いつの日か絶対に来る私のお葬式で流してほしい歌です。
会葬者は引くかもしれませんね(笑)

I'm Rich 栄光に満ちた天の家に引っ越して信仰と希望と愛の億万長者になるぞ、ハレルヤ!という歌。


I'll fly away いつか、ある朝、私は遠くに飛んでいくよ。ハレルヤ!という歌。


Will the circle be unbroken 最愛の母を連れて行く霊柩車に、もっとゆっくり運転してくれ。でも天にはもっと良い住処が用意されているんだよな。という歌。


他にもいっぱい天国の歌、これから集めてメモって行こうと思います。
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by martha2nd | 2013-06-21 15:56 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)

死が近づいた人

私はスピリチュアルケアというものを学んでいますが、
私が学んでいるスピリチュアルケアの教育機関は日本に唯一のものではなく、
他にもいくつか団体があります。
そして今日は他の団体で同じようなことを学んでいる友人の誘いで、
そちらの公開講座を受けに行ってきました。
講師はケアタウン小平の山崎医師。
大学病院の消化器外科医を経て、病院で死んでいくことのシステムに疑問を感じ、
船医を経て、ホスピス医となられた方です。

様々なことをお話しくださいましたが、私が一番印象に残ったのは、
山崎先生が14年のホスピス病棟での勤務、在宅ホスピスを開業して現在8年。
この24年間におそらく数えきれないほどの死に瀕した患者さんに接してこられたと思います。
そして余命いくばくもない状態で体が弱り、死が近くなったときに、
「死んだらどうなると思いますか」という問いに「無になる」という方はほとんどいないそうです。
ほとんどの方が、この世の続きの世界がある、と感じているそうです。
また、死が非常に近くなると幻覚が見えるようになり、たいていの人が「先に行った人」を見ているのだそうです。
それで「お迎えが来た」とか言うのだそうです。

山崎先生は現在のところ特定の宗教は持っていらっしゃいませんので、これまでそういう患者さんに「そうだと良いですね」と答えていたそうなのですが、最近はもう本当にそうなんじゃないかと、つまり死の向こうにも続いている世界がある、と、思ってきたそうです。

私自身は聖書からそのことを信じますが、信仰を持っていない山崎先生が経験に基づいたうえで、その見えない世界、天国というようなところの存在を信じていいのではないかと思っていらっしゃることに、自分の信じる聖書への裏付けをいただいたようで、より大きな希望を持つことが出来ました。

この見えない世界の存在は、おそらく考古学とかいった科学の確かさ以上のものがあると思います。
始祖鳥より原始的な鳥の化石が見つかったとか、現代科学の確かさというものに首をかしげますね。
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by martha2nd | 2013-05-30 15:03 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)
まとめられるかわかりませんが、前回の研修から帰ってきて、とりあえずスーツケースから本やノートやファイルを出して机に積んでいたものを、今片づけまして、その下の方からノートが出てきて開けるようになったので(笑)
ノートを見ながら備忘録的に書いてみたいと思います。箇条書きになるかもしれません。

☆人間は輝いている、と言われるのはなぜ?
ダイヤモンド原石は輝いていない。カットの仕方で光ってくる。
カット面の数がたくさんあればあるほど、そこから光が入り込んで乱反射して光が外に出て輝いて見える。

同様に人間も多面的な存在だから輝く。このことを忘れると人間を一面からしか理解できない。
「あの人は~~だ」「私は~~だ」と一面的に見るのではなく、人間は多面的であることに気づくことが重要。
そしてまずケアをする私自身が多面的な存在であることに気づかなければ、相手(患者さん)の多面性に目を向けることができない。

☆人間のことをヒトというが、これは大和ことばの「日・霊(いずれもヒと読む)」のある「所(ト)」という意味。
「日」は光と熱を発している。光は何かアイデアなどを思いついたときにマンガで電球が光る絵が描いてあったりすることにもみられるように、真理を表している。
また、熱は「熱中する」などというように好きであること、つまり「愛」を表している。
つまり人の霊というものは光と熱、真理と愛がその性格である。
古代大和の人たちは聖書など知らなかったであろうが、重要な真理に気づいていた。
つまり、聖書に「神は真理である。神は愛である」と書いてあり、人間はその神の似姿に造られた、とあるので、人間の霊が真理と愛を持っているという、大和の人たちの考えは、聖書と矛盾しない。

☆人間は体、心(思考、社会性)、霊(精神性)によって成り立っており、真の健康はこのバランスが保たれているとき。
研修中2人組で1分間「あなたは身体的にどういう人ですか?」「私は身体的に~~です」というように、問答し続けるワークを実施した。このほか「あなたは社会的にどういう人ですか?」「あなたは精神的にどういう人ですか」という質問も行った。

私は「身体的」「社会的」にはまあまあ答えることができたが、「あなたは精神的にどんな人ですか」と聞き続けられると、最初の数問は答えられても、その後答えに困った。つまり、私は自分の精神的な面について、意外に知らないでいるということがわかった。

☆人間に基本的に与えられているものは自由意志(大切なものを選ぶ意思)と合理性(真理に基づいて考える)。私たちはよく考えずに行動していることが多く、その行動の裏にある「欲求、動機、意思、願望」などを良く見つめてみると、そこからスピリチュアルな領域に入っていくことができるかもしれない。私たちのスピリチュアル(霊的)な状態が私たちの行動には現れるということ。愛+真理=行為

☆スピリチュアルケアは生活そのものでなければならない。
「知ってるよ」ではなく「やれるよ」という状態でなければならない。

☆自分の経験、体験を根本的に振り返り、その中の意味を見出す。これがそれぞれの「哲学」というもの。このように自分の経験に精通することは、結果的に自分の経験を手放すことになり、これによって、患者さんの話を聞くときに、患者さんの経験を自分の経験と重ねて理解するのではなく、それそのものを受け入れることができるようになる。

☆和解とは、相手との話し合いに基づくものではなく、自分の心の中にいる相手をゆるせる、ということ。

☆ホスピスには癌患者はいない。つまり患者さんに接するとき「がん患者」というくくりにしない。それぞれの患者さんが唯一無二の存在。それぞれ個別の人生を歩んできた人。その唯一無二の人の霊やたましいに寄りそうことがスピリチュアルケア。また同時に私たちケアをする人たちもそれぞれが唯一無二の存在である。

☆「聴く」ということ。聴くという姿勢が相手へのプレゼントになる。相手に解答を与えることが目的ではない。解答は相手がすでに持っていると信じる。私たちが十分に聴いてあげたときに、相手は自らの解答に気づくもの。

☆役割が存在意義を造るのではない。存在意義が役割を造る。
患者さんの存在意義(生きているということ)に寄りそう。そうすることで私自身が生かされていることに感謝できる。

☆昏睡や重い痴呆で脳が正常に機能していない人について。脳はその人そのものではない。脳はその人を表現するシステムであり、それが壊れているだけ。魂、霊、私、愛というものは、脳がシステムが壊れていて画面に映らなくても確実に「在る」。霊、私、愛は、死の瞬間まで成長する。

☆赤ちゃんに戻った老人が教えてくれること。私たちが学ぶべきこと。それは私たちも赤ちゃんのときに父母や世話をしてくれる人に同じようにしてもらっていたこと、赤ちゃんを育てることの苦労を知る、思い出す、ことができる。

☆スピリチュアル(霊的)なことに気づく、ということは、プレゼントされているもの(すでにそこにあるもの)に気づくこと。「相手は私の中にあるものを見せてくれる鏡」

☆何度も同じ話をする人がいるが、その人がなぜその話に何度も帰らなければならないのか、まだ解決されていない問題、傷、がそこにあることにその人が気づいてないから。そのことに気づいたときに、その人はその話をやめる。

ざっと箇条書きになってしまいました=3

息子のお迎えに行ってきます。今日は保育園からピアノのレッスンに直行です。
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by martha2nd | 2013-05-22 16:04 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(2)

研修から帰りました

6泊の熊本滞在から東京の自宅に戻ってきました。
昨日夫と息子がお迎えに行った猫のつくしが私の仕事部屋の隅っこに置かれたケージの中に居ました。
背中はまだ手術のためにバリカンで刈った毛がのびてないので寒そうです。

今回パストラルケアでほんとに多くのことを学んで、
近いうちちゃんと復習してまとめたいと思います。

人間の魂って不滅なんだと改めて思い、教わりました。
魂は不滅、不変で、それにくっついている「霊」は、成長することができるもの。
死の瞬間まで霊は成長できる、と学びました。
たとえば認知症の方は脳というシステム、ハードが壊れていて、
ソフトであるその人の魂や霊を表現できないかもしれないが、それは確実にその人の中にあって、死の瞬間まで成長できるのだ、と講師は言っていましたし、私もそれを信じます。
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by martha2nd | 2013-05-07 15:11 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(2)

明日から熊本

明日から熊本に行ってきます。
単身です。パストラルケアの研修なのです。
また実家にお世話になります。
遠方からはるばる熊本にホテルに滞在しながら研修を受ける方たちもいます。
非常に数少ない、パストラルケア研修の受け入れ病院の1つが
私の実家のある熊本に存在し、しかも電車1本で行けるという境遇に感謝。

明日と明後日の保育園の送り迎えは、
当初夫がするはずだったのですが、仕事の都合がつかない可能性が高くなり、
急遽、福島から夫の母が来てくれました。
義母も東京にきょうだいや親せきがたくさんいるので、
Eliが保育園に行っている昼間は、めったにゆっくり話すことのない親戚に会ったらどうか、
というのが夫の提案です。。

私の研修のために、義母にまで来てもらって申し訳ないです。
普段、自営業で本当に忙しい人なので、この3日間、少しでもリラックスして、
ひとりの時間などを楽しんでもらえればと思います。

私はつくしのことや、Eliの発熱などもあり、
全然研修モードになっていませんが、Eliはとりあえず熱も下がり、
明日は元気に保育園に行けそうなので、
とりあえずあすEliを保育園に送り届けてからは、
一気に研修モードに持って行こうと思います。
研修が終わったら、こんどは一気に「つくしの介護モード」に持って行きます!
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by martha2nd | 2013-05-01 00:13 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)

繭と墓

三好達治の詩を読んでみたくて、図書館に行ったときに、
詩集のところに三好達治のものはなかったのですが、
金子みすゞのはあって、
詩なんて私なんかが理解できるような分野ではなく、興味もそこまでなく、
彼女の名前を知ったのも、息子と「にほんごであそぼ」という
子供向け番組を見ていたときで、
彼女の詩はその番組で取り上げられたものだけしか知らなかったので、
今回彼女の詩集を借りてみました。

彼女はクリスチャンではないと思いますが、
詩人という人たちの感性で世界を見ると、真理を悟るのだろうなと思いました。
聖書を解き明かされなくても。

もう今日が期限で本をかえすので、一つだけ、メモとして、
彼女の詩をここに書いておきます。

繭と墓

蚕は繭に
はいります、
きゅうくつそうな
あの繭に。

けれど蚕は
うれしかろ、
蝶々になって
飛べるのよ。

人はお墓へ
はいります、
暗いさみしい
あの墓へ。

そしていい子は
羽が生え、
天使になって
飛べるのよ。
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by martha2nd | 2013-04-19 10:45 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)

人生短いなりに

最近ほんとに時間があっという間に過ぎるんですね。
息子が保育園に行くようになり、毎週金曜にお昼寝のシーツや上履きを持ち帰り、
そういった大物の洗濯をしなければならなかったり、月曜になれば
保育園に上がってシーツ(式布団かけ布団とも)を掛けます。
ピアノもほぼ毎週習うようになりました。
1週間の経過を意識する日が増えたということもあるのでしょうが、
とにかく1週間があっという間、そして1か月があっという間です。

こうやってあっという間に年を取って死の床につくのだろう、とか思うと、
私の面倒くさがりな性格的に、ああ、もう毎日適当に過ごしたい、
といい加減なことを思ってしまいます。
でも毎日適当に過ごしては一生が適当に終わるわけで、
そんな生き方を神様が喜ばれるわけはありません。

だから、投げやりになりそうな自分に鞭打って、
人生短いなりに、そして短いからこそ、一日一日を大切にしなければ、と
頑張って思うようにしたいと思います。

今日はイエスキリストの復活を覚える日でした。
イースターです。
1997年のイースター、たしか3月30日がイースターの日曜だったと思います。
今年はその時とカレンダーが近いですね。
その1997年のイースターに私は洗礼を受けました。

今日のイースターは、その日のことをしみじみ考える暇はありませんでした。
考えたかったわけでもないですが。
今日のイースターはとても素敵な一日でした。
私たちの教会は2011年に牧師を失って1年、ほんとにさまよえる小羊の群れのようでしたが、
今年度の1年間を期限に、健康に問題がありながらも私たち教会のために、
哀れな小羊たちを導き、そして新しい長期的な牧師を迎えるために尽力してくださった
牧師ご夫妻のお別れ会でした。

1年間しかいらっしゃらなかったのですが、本当にお世話になりました。
先生ご夫妻の健康のため、これからのお働きのために、
陰ながら心よりお祈りいたします。
これからもよきお交わりが与えられますようにと切に願います。

しかし、来週から、新しい牧師先生が来てくださいます。
これも今日で去られた先生のご尽力のおかげです。
新しい牧師先生とこの教会がよき関係に導かれ、互いに心から信頼できる教会へと成長しますように。

明日からの新しい年度、新たな気持ちで歩んでいきたいですね。
皆様の新年度が新緑と桜色の希望に満ちた、そして希望が叶えられる一年間となりますように。
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by martha2nd | 2013-03-31 21:07 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)

人生の四季

来月パストラルケアの研修があり、その課題であるブックレポートにここ数日明け暮れていました。
患者に耳を傾けるように、著者の言いたいことに心を傾けて読むように指示されており、普段いかにいい加減に本を読んでいるかを実感しました。ただでさえ深い内容であるその本の著者の言いたいことを理解しようとするのは、非常に難しく、時間のかかる作業でした。

ブックリストの中から私が選んだ本は今は亡きスイスの精神科医ポール・トゥルニエの「人生の四季」という本です。幸い、読んでみたくて、何年も前に入手していたのですが、読む暇がなくて、本棚に眠っていました。でもこの機会に手に取ることができてよかったです。

150ページのこの本を読んで、内容をA4用紙4枚までにまとめなければならなかったので、まとめついでにこちらに掲載します。本当はもっと短くまとめなければならなかったのでしょうが(1000ページの本でも最大7枚までにまとめるようにと指示があったので)、あまりにも中身が濃く、短くまとめるのは困難でした。

上手くはまとまっていませんが、人生の春(幼年期)、夏(青年期)、秋(老年期)にいる人だれにでも参考になると思いますので、よろしかったらご自分の部分だけでも読んでみてください。私は自分は夏にいると思っていましたが、秋はユングによると40歳から始まるそうです^^; そして幼年期の子どもを育てる母親としても大変参考になる本でした。

以下私のブックレポートより。

内容

人間の生涯では、自然界と違って、人生の秋つまり老年期においても春が来ることがある。たとえば、80歳になって回心を経験した私(=トゥルニエ)の知人は「私は今生まれたばかりのみどり児のような気がする。私の人生は今はじめて始まったのだ!」(p6)と言ったが、彼の過去や経験のすべてが消されたのではなく、彼がその人生を別の光に照らして見た表現であり、自然の秩序に逆らったわけではない。同様に子供が人生の根本的真理を鋭く把握して大人を驚かせたとしても、必要な教育と成長段階を経なければ、幼児の思考法からは脱却できない。つまり、人間は自然の一員であり、奇跡的な宗教体験や霊的体験でも、この自然的性質から解放されることはない。しかし、人間は動物と違って自然と超自然(精神)の世界に同時に所属している。その境界線は人間の精神内での区別でしかなく、自然と精神は互いに浸透し合っている。この矛盾と二重性は人間にとっては不可解な謎で、現在人間の精神は自然的と超自然的な人間の生を幾分なりとも調和させるような一つの概念を探し求めている最中であるが、私は神の計画という聖書的理解だけが満足できる解答を与えると思っている。

神は人類全般におよぶ計画だけでなく、一人一人の人間に計画を持っておられる。それゆえ人間を研究するときは、一人の人の歴史と生成とに興味を向けなければならない。「一人の人間の現在の態度は、それまでに彼が経験した一切の事柄と、彼の現在の年齢相応のさまざまな欲求とから説明されうる(p19)。」フロイト以前までは、子供は大人の雛型と考えられていたが、子供には子供固有の心理学があって、大人の見方で教育すべきではない、とフロイトが説いた。一人の人間は絶え間ない発展の中でとらえられるべきであり、一つの個人的な歴史としてとらえられるべきである。聖書的にも、心理学的にも、私たち人間は常にある具体的な状態におかれていて、常に発展変化している。この発展に四季が含まれている。

幼年時代はまさに人生の「春」であり、一人一人の子どもは宝を内に秘めていて、花開く準備をする時期である。どの子も独自の人生の計画を内に秘めており、その計画は人生の歩みを進めていくうちに発見されていくもの。しかし多くの親が、自分の子どもに対して身勝手な未来像を描き、本当の人格として扱わない。子供はすでに、あらゆる感情を彼らの年齢なりに経験していて、子供の心の中で演じられていることが、大人から教示されることよりもはるかに大きな影響をその子の生涯に与えることになる。また、子供は無頓着に見えても、家庭の中の力関係や両親の仲について、敏感に気づいているものであり、蕾の状態にある子供は、寒暖計よりも敏感に気温の低下をキャッチしてしまうもの。蕾には温度と覆いが必要で、両親が互いに愛し合い、幸福かどうかにかかっている。幼年時代にこうむった霜の影響は老年にいたるまで見られることがある。

子供と大人は全く違う考え方を持っていて、子供の考え方は魔術的で詩的空想。現実より非現実に興味を持ち、物事それ自体よりも抽象的なものに興味を持っている。親は子供の詩的な欲求に気づき、それを認めることが親子の人格的な触れ合いとなる。このことは人間にとって絶対不可欠である。親は学校教育や職業技能訓練を与えることしか重要視しないが、子供が持っている他者と純粋に深くかかわる能力や感動する心、空想力といったものが、知識や技術同様に人生の成功の鍵となる。学校の勉強より遊びの中で子供は将来を思い描くもので、子供の頃遊びを心得ていた人は、大人になっても仕事ができるものだ。親は子供を尊重しなければならない。つまり子供の遊びを尊重し、子供の羞恥心を重んじ、子供の年齢を重んじることである。つまり大人扱いするのもよくないし、いつまでも子供扱いするのもよくない。子供の心を健康にするか否かは両親の愛情にかかっていて、赤ちゃんのときから一人の人格として、その個性、独創性、運命を認め、両親の所有物とみなされるべきではない存在として接することであう。

青年時代は自分自身の実存を十分に自覚すべき時期。子供の時期から青年期への過渡期が来ると、人生の「春」は終わる。ユングによれば、青年は常に絶対を求め、人生を白か黒かにしか見ることができない。そのため、青年は自分の内の気に入らない部分や恥ずかしい部分を認めないが、過ちのない人はおらず、青年は自分の影の部分を含めた自己全体を受け入れることによってのみ、人間として完全に発展開花することができるということを会得すべきである。これがユングの言う「統合」の道であって、自己の本性をありのままに知ろうとする勇気ある行為である。自分には向上しえない部分があることも知っていく。ここまでくると、すでに夏から秋への移行が見られる。この統合は内奥からの呼び声によって導かれるものなので、自然的なものではなく、精神的なものである。

成長のために重要な役割を果たす要素が4つある。
一つは「愛」で、子供は特に愛情を必要とし、その欠如は身体、精神の成長の阻害ともなる。しかし両親の愛がどれほど大きくても、子供の欲求を完全には満たすことは不可能であり、この問題への答えは無限で無条件の神の愛だけである。私は幼くして孤児となったが、神の無限の愛にとらえられて、孤児という運命のもたらした傷から癒された。
二番目が「苦悩」である。苦悩や試練は悟りを得る助けになる。しかし、苦悩が人間の成長発展を妨げることもある。重要なのは苦悩の受け止め方であり、医者としての任務は、「可能なかぎり、身体的な苦痛や精神的苦痛に打ちひしがれている人間の味方となることにありますが、同時に、その苦悩や苦痛を意義ある体験たらしめるように助力することにもある(p60-61)」
三番目の要素は「同化」、つまりごっこ遊びや模倣である。女の子は人形遊びをしながら自分を母親と同化し、男の子はある時期がくると自分を父親と同化して子供の遊びから離れ、男性的な態度を誇示するようになる。しかし、父親には限界があり父親を手本にしすぎるならそのスケールを越えられないので、男の子は、伝説の英雄とか科学者、歴史上の聖者などに自分を同化する必要がある。人間は同化の連続で成長する。しかし、それぞれの同化対象には限界があるので、究極的にはイエスに似たものとなろうとすることが永遠のチャレンジである。
四番目の要素は「順応」。人間は新しい状況に置かれると、個性を改めたり、自分の習慣を改めることを要求されるが、それは容易ではない。子供はこれに勝利することによって成長するが、もしこの緊張に耐えられないと後退することがある。親は子供の周りからこのような緊張を取り除きすぎてもいけないし、早すぎる時期に困難な適用を強制してもいけない。しかし、あまりに上手に適応しすぎる場合もある。たとえば、一度も喧嘩をしたことない夫婦などは、どちらかが相手に完全に順応してしまい、自分の個性を完全に失っている。自己克服を経ての順応でなければ成長にはつながらない。

カトリック教会もプロテスタント教会も、生気がなく、もの悲しげで疲れた人が多い。彼らは抑圧されていると感じ、自己主張ができなくなっているのだ。このような状態は外的な悪条件に打ちひしがれているというより、内的な反抗心、否定的な力によって抑圧されている、未成熟な状態。このような人たちは、本当は激しい気性の持ち主で、一般的な青年にも多く見られるが、自分自身の感受性の強さに自分自身で不安を抱き、自己を解放できなくなっている。不安の裏返しは願望の存在であり、望みを持たなければ不安はない。多くのキリスト教信者が聖書の教えから離れ、「宗教的であるということはまず第一に、お行儀よくするように(模範的な子供であるように)常に努力することであり、それは何よりもまず禁止条項をよく守ることを意味していた(p74)」ので、抑圧を感じる結果となったが、聖書は道徳的なものに重点を置いているのではなく、「神が喜びとされることは、人間と宥和し、神ご自身の無限で無条件の赦しを人間に与えること(p74)」である。道徳主義は教会の幼稚退行現象ともいえる。聖書に照らして見る時に重要なのは、自分にやましいところがないことではなく、自分の罪を認めて、頭を下げること。聖書的な、あるいは、成熟した大人の罪意識とは、この世のあらゆる悪や苦悩を自分と分かつことのできないものと感じ、共同責任を感じることである。この責任感とは自由があるところにのみ存在するもの。親が権威主義では、子供は責任感を育めない。両親に強く依存している限り、子供は責任からのがれている。神に出会い、神の前に責任を自覚することが、解放するキリスト教である。神への依存のみが私たちを偏見から解き放ち、一人の人格としてくれる。神が望んでおられるのは私たちの人生の充実である。イエスが、当時人間的な名声の頂点に達していたニコデモにさえも勧めた「生まれ変わり」とは、フロイト学派のいう「成熟すること」を含んでおり、ユング学派の「統合」の基礎をなすもので、イエスが最終的に意味したところは「生まれ変わり」とは神の国、永遠の生命である。

この「神の国」とは死後に見いだされるのではなく、今すでに始まっている。神の国とは未来だけでなく、現在の具体的な生活を充実させることであり、この充実が完成されるのは結実の季節である「夏」においてである。「充実した人生とは、私たちが日々生じてくるさまざまな問題を解決した後にはじめて開始するのではなくて、勇敢に課題と取り組むという姿勢の中にすでに存在している(p90)」。夏を充実させるために従うべき法則は、実を結ぶこと、つまり「行為」である。「行為」は「休みない活動」を意味しない。「最も実り豊かな行為は静思から生まれる(p98)」。「当を得た行為がなされるためには、まずその前に、熟考の時がなければならず、これこそ自分がなすべき仕事だ、という霊感を与えられた確信ある選択がなされなければなりません(p101)」。信仰のない人でも、この人生が一つの責任を伴った贈り物なのだ、という考えをもっているものなので、このような確信を持つことができる。

果実の善し悪しを決定するのは、十分に熟しているかどうか。ゆえに、夏の季節は、活動ばかりでなく、心を統一し、内省する時間も重要である。瞑想においてこそ、個人の価値基準や決断を探し当てることができるものである。青年があまりに早く、一つの哲学や信仰、または女性などを決定してしまうのは不適当だが、季節が深まってくると、今度は断念することが重要になる。「何物をも棄てようとしない人は、精力を浪費しすぎてしまって真の開花には到達しません(p107)」。私たちは実現できるものよりも多くのものを断念しなければならず、成功だけでなく、多くの失敗があることを認めなければならない。しかし、失敗のほうが成功よりも実り豊かなものであるかもしれないということを理解するようになる。何か重大な失敗や幻滅(病気)などを味わうことで、価値の再検討をせまられ、人生第二の転機である老年期、「秋」が始まる。

「秋」は突然近寄ってくる。私たちが目標に到達できなくても夏は過ぎ去る。しばらく前までは成功を獲得することが目標で、失敗も挽回できたが、やがて誇りも、挽回しようとする意志も、一切断念しなければならなくなる。しかし、そのような状況でも、人生の充実は可能。預言者エレミヤがたどり着いた結論のように、「勝利よりももっと深く、もっと勇ましく、もっと実り豊かな成果が存在する、という考えであり、また、奇蹟とは、敗北や不成功を受け入れることであるという考え(p114)」である。一方繁栄の下での老化は、内面の成長によるものではなく、感覚の鈍った退屈によるものである。成功している人にとっては、ますます成果が上がり、ますます生産的になることが人生の充実であるが、そのような充実に到達することは不可能で、終わりのない競争のようなものである。しかし、本当の充実とは、もっと微妙で、直感的にとらえられる超自然的なものである。「真の幸福は常に、一つの深い内心の統一と結び合わさっています。自分の年齢を肯定することこそ、真の幸福の前提なのです。つまり私たちは成年に達したらばもはや子供でないことを肯定しなければならないし、年を取って来たら職業生活の多くの活動を断念しなければなりません(p122)」。真の幸福とは、心の持ち方、つまり、その人が真に成熟しているかどうかの問題である。真の幸福は「何が人生の意味なのか」という問いを投げかけてくるものである。大切なことは人生の真の意味を発見することであり、人生の意味の探求が老年期の法則である。

老人たちが過去を反省し、価値の再検討を行い、残された人生の意味を発見するには、対話が重要である。私たちの人生の転機は、必ず出会いがきっかけとなっている。観念、人、書物、映画、自然現象、哲学などとの出会いである。そして、神との出会いは、人間の心を自由にし、本当の人格を得させるものである。私自身、子供のころに神に出会ったが、大人になって、現実的な活動の中で再び神と出会った。それは、医師としての仕事を導いてくださった、霊に満たされた人たちとの対話の中で起こったのだ。聖書に「私たちは今は鏡によって見ている」とあるように、十全な神認識は持てないが、冬の死のかなたでは、顔と顔を合わせて神を知るようになる。死の接近はまるで秋から冬への移行のようである。「その際私たちは、このすべての道程には一つの意味があるのであり、この道はどこかあるところへ、もうすでに私たちに告知されてはいるがまだ秘められている充実へと導き行くものであることを知っています(p150)」。
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by martha2nd | 2012-08-31 11:51 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(5)

続 新しい習慣

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今朝もウタとデボーションしました。試練には目的があることを学びました。昨日の礼拝で子どもたちも同じような話を聞きました。神様は美味しくないもの(ニンジンとかピーマン)に栄養を隠してる。我慢して食べると身体が強くなる。辛い経験をしたときも、神様が自分を鍛えようとしてくれてることを思い出してください、と。
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by martha2nd | 2012-07-23 12:56 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(0)
前回のスピリチュアルケアの会場の近くに大きなカトリック教会があって、
ときどきカラーンカラーンカラーンと鐘の音が聞こえてきました。
プロテスタントの教会は簡素で鐘なんかないところが多いから私は鐘のこと考えたことありませんでした。
受講生の1人に講師が「この鐘の音の意味は」と訊くと、彼女は「時間を伝えている」と答えました。
しかしその時は中途半端な11時台の時間でした。
するとほかの受講生が「上のことを考えるように」と答えました。彼女はカトリックのシスターでした。
その答えが正解でした。
私も実は「時間」かなと思ったのです。
教会の鐘の音は「しばし生活の雑事を止めて上のこと、つまり天のこと、神のこと、を考えなさい、祈りなさい」という意味なのだそうです。
無知で内心恥ずかしかったです。

カトリックの司祭でもある講師は
「でも教会の鐘の音は少し音が高くて頭の中で響くような音ですが、お寺の鐘の音は胸に響く音ですね」と言いました。確かにそうかもしれません。胸のあたりに振動が来るような音です。

講師は以前山に登ったときに、山のお寺の鐘がつかれていたので、お坊さんに「この鐘はどういう意味ですか」と訊いたそうです。そしたら「お昼を知らせる鐘です」とお坊さんは答えたそうです^^;
講師は「いまどき時計を持ってない人はいないでしょう」と内心思ったそうです(笑)

せっかく胸に響くようないい音をしたお寺の鐘なのに、時間を知らせるために鳴らされるのでは残念なことです。除夜の鐘もある意味時間を知らせるものですね。。

もしみなさんが教会の鐘の音を耳にすることがあったら、しばらく雑事を止めて天のことを黙想してみてください。私もこれからそうしたいと思います。
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by martha2nd | 2012-06-14 10:48 | 神・キリスト・聖書・十字架 | Comments(1)

クリスチャン。在宅翻訳やってます。夫と文鳥との生活に奇跡的な誕生をした息子も加わり奮闘しています。


by martha2nd